悠久バプテスマ

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飽くなき無職への希求は死んでいない

 ニートへの希求、無職への希求を俺はいつでも心に持っているつもりであるし、これまでも持ってきた自負がある。三年前、俺がとうとう普通の就職をしてしまったおり、知人に「気骨のあるやつはいないのかよ~」と言われたことがある。俺は何も言い返せず、ただただ唇を噛むしかなかった。彼の言うとおり、俺にはふらふらした生活を貫きとおす無職力がなかった。しかし、心にはいつも、無職がある。
 行動に一切の強制なく、誘蛾灯に群がる鱗翅のように興味をひかれた事柄に時おり没頭したり、しなかったり、どうでもいい手遊びに興じたりすることが可能な身上こそゴールである。そうなるために生きていると思っている。端的に言うと、ニートや無職に憧れている。こう表明すると、大抵は、ニートや無職に対する煽りだと捉えられるが、とんでもない。本当にそうなりたい。だって、上位互換じゃないですか。ニートや無職みたいな生活ができる状態で、仕事みたいなことがしたいならすればいい。それは強制ではなく、やりたいことだから、やっている。それがやりたくないことだったら、そもそもやらないでいい。途中でやりたくないことに変化したら、すぐにやめることができる。あまりにも特権的すぎる。
 働かないやつはカスだ、みたいなことを言う人がいるが、それは、無職やニートになるわけにはいかない悲しい身の上にあり、その悲しい身の上を、そうでない身の上のやつはカスだと思い込まなければ精神を保てない人間ということなのだと思う。素直に考えたら、Aしか選べない状態より、AもBも選べる状態の方がいいに決まっている。どうせAを選ぶ人でも、Aしか選べない状態ではなく、AもBも選べる状態でAを選べばいい。少なくとも、Aしか選べない状態の方が価値が高いということはない。どれだけ悪く見ても、同じ価値である。また、社会に対して貢献しないのは悪いことだと糾弾するのは、恫喝と何ら変わらないと思う。強盗のようなものだ。人を同調圧力やら規範などで脅して、社会とかいう抽象的で大きなワードを使って薄めてはいるが、自分が社会の下にいることを踏まえて、奉仕しろと言っているだけである。人として、とか、まあそれはもう詭弁を弄するが、我田引水の変奏に過ぎん。この手のヤクザは、聞く耳を持つふりをしないと怖いが、本質的には持たんでいい。これは我々が善悪の善に立っていて悪側の権謀術数への対策としてこうするべきという論ではなく、単なるパワーゲームの心得だ。例えば、転売厨視点での転売糾弾も、聞く耳持たせたもん勝ちの恫喝である。これを押さえていないと、ヤクザに幸せを吸い取られたり、幸せを得る機会を喪失させられたりする。もっと恐ろしいことには、幸せの感受性を変容させられて、ヤクザに殉じることこそが幸せだと思うようになってしまったりする。
 なので、今のところ俺の無職観は、社会貢献ヤクザなどのヤクザたちからは概ね解放されており、その輝きを維持している。無職最高。もうすぐ対象年齢から外れるが、ニート最高。そして、それを実行している人は最高である。無職を将来にわたって実行し続けられる確信を得て実行している人はあまりにも最高だし、将来のことなどまるで考えずにとにかく無職をしている人もなかなか最高である。イデア界の美を目指して橋本環奈どまりといったところか。俺なんかは、仕事なんぞにかまけて、無職をぜんぜん実行できていないカスである。憧憬に身を任せて、何も考えずに無職をやることにビビっているチキンなのだ。どうせすぐお金がなくなって終わってしまうから、それならまだ働いてもう少し生きながらえた方がいいか、と思うぐらいの悲しい身の上であるだけなのだ。だが、そんな現実から目をそらすために、自分を守るために、無職への憧れに泣く泣くマイナス1をかけて、恨みに変換して、それを蔑むことで、無職になれない自分を慰めるような愚行はするまい。どれだけ日銭を稼ぐことに大切な人生の時間を奪われようとも、醜い価値転倒は起こしちゃいけない。それが俺の矜持である。