悠久バプテスマ

141文字以上の文を140文字以下の文にしたくない時に使うブログ

「くっつけること」が人間の本質説

 たまにはちょっとした思索なんかをしよう。30もなかばになってきて、10代、20代の頃に比べると、あまりそういうのをしなくなった。歳をとってくると、本質的なことをあまり考えないものなのだろうか。イメージ的にはジジイこそが豊富な経験をもとに事物の本質を悟ってそうだが、しかし宇宙とか人間とかについて考えるのは中学生ぐらいで、中年はもっと即物的に生きているイメージもある。本質的な思索にさく時間は、年齢につれて単調増加でも単調減少でもなく、お椀型になっているのかもしれない。つまり俺は思惟の谷間にいる。まあ人によるんですけどね。あくまで自分の傾向から推測する全体の傾向の話です。

 という思索じゃなくて、本題がある。人間の目的の本質がいくつかあるとしたら、そのひとつは「くっつけること」なんじゃないかと、ふと思った。人はみな、とにかく何かをくっつけたい。ただくっつけるだけじゃなくて、より強い結びつきをもってくっつけたい。くっつかないだろうと思っていたものが、意外な結びつきでくっつくとうれしい。人間のリソースの多くが、この営みに取られているのではないか。

 生物には、存続するために獲得した指向というものがあると思う。食べるのが好きなのは、利用できるエネルギーを近くに置くという抽象的な目的が受肉したものだろう。性的なものが好きなのは、子孫を残す目的のための手段の動機づけであることは明白だ。という形式で表せることの、前項部分と後項部分の中間ぐらいの抽象度で、「くっつけること」は人間の指向としてセットされているのではないか。

 ダジャレは、一見関係ない言葉を、同じ音韻という理由でくっつける行為だ。ラップもそれが楽しい。さらに、それが何らかの強いテーマを発するぐらい良い文章であれば、もっとうれしい。そんな強いテーマのもとに集められた言葉が、音韻という理由でまで結びつくことがうれしい。メタファーもそうだ。一見関係ない事柄が、気づかないような何かを暗示して表現していることがうれしい。エヴァとかジブリの考察は楽しい。寓話や風刺も楽しい。ただの風景画のように見えた絵が、実は政争を表現したりしているとうれしい。たとえツッコミも、視聴者の前で公然と起きた出来事を、まったく想像していなかった別の事物にたとえられるとうれしい。それが一見関係なさそうで、言われてみて考えれば考えるほど結びつきが強いことが分かるとめちゃくちゃうれしい。

 「くっつける」の意味が広範になりすぎると、じゃあ細胞が栄養を吸収するのも「くっつける」だし、何でもかんでもくっつけるで説明しようと思えばできるやんけ、ってなるけど、逆に、つまり人間の営みと同値とまでいえるぐらい本質的なことなんだよ、という断言に賭けてもいいような気がしないでもない。だって、「くっつける」ことを本質に置きすぎて、余剰なことをしすぎていると思うから。人間が。それぐらい抽象的なのに強い目標を人間は設定されているように思う。上述したダジャレとか、物質的存続にはいらないもんな。飯食うとか寝るとかセックスするとかは、やらないと即座に存続できなくなる即物的な目標設定だけど、韻踏みまくったラップを聴かなくても、エヴァを観なくても、物質的には人は生きていけるはずだ。なのに、物質的に生きていくための時間や金を消費してでも、やってしまう。これは、それぐらい物質的無駄なことをやることを許容してでも、必要だった目標設定だったんじゃなかろうか。その一見無駄な営みを差し引いても、トータルでプラスになるようなしくみが、この世界、もしくは人間にはあるんじゃなかろうか。遊びは仕事の練習っていう説があるような感じで。

 まあ、実は期待値はプラスでないかもしれん。そういうマイナスの要素もあわせもって目標設定された生物だけど、他の分野の能力が優秀すぎて生き残っているだけかもしれんし。たまたま、そういう特徴があるだけかも。あるいは、くっつけることが好きな性質はあって、物質的に豊かになった時代では目立つけど、本質要素全体からしたらどうでもいいぐらいの重要度なのかもしれん。あるいは、生存がマジだった時代では、もっと無駄じゃないことに活きていたのかも。あるいは、もっと上位の抽象度をもった概念があって、その一側面を見ているだけなのかも。

 分からんし、仮に「くっつける」が重要な本質だったとして、だから何?って感じはありますけどね。実はそういうことなのかもね~っていう捉えを、強力に否定する理由は、今んとこ、特に俺の中にはない。っていう話でした。