悠久バプテスマ

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信頼する情報源の選び方

 事々物々があふれる世の中の出来事についての情報を、自力で収集し把握するのは効率が悪いし無理である。何かの事件の裁判の結果がどうでその判決はどういう意味なのかとか、誰かがノーベル賞を受賞したけどその業績はどういうものなのかとか、GAFAクラスのあの企業が新しいサービスを始めたけどこれはどういう潮流なのかとか。そんなことを詳しく把握できるような知識も暇もない。ないが、そういうものは概要だけでも知っておかなくては、円満な社会生活を送るのが一層難しくなる。なので、他人の手を借りなくてはならない。ある分野についての話題は、その分野に長じた人の見解を参考……いや、鵜呑みにするしかない。自分が知らない分野のことについて、誰かが何か言っていても、その真偽や妥当性を判定する材料がなさすぎるからだ。例えば法律の話で、どっかの弁護士を自称する者が「万引きって実は死刑になったんですよ」と言ってるぐらい分かりやすい嘘なら、普通に考えてありえんと即断するとか、法律にそんな条文がないことを確かめたりするとかは容易だが、「強姦罪の法定刑の下限が上がったのは、強盗罪とのアンバランスが以前から言われていたせいなんだよ」とかになってくるともう分からない。法曹の見解を鵜呑みにするしか、何も材料がない。

 しかしそこで問題になってくるのが、その見解の信頼性だ。こればっかりは、自分の頭で考えても限界がある。事実に基づかず、人の意見を鵜呑みにするのだから、他人が言った見解が真っ赤な嘘で、真っ赤な嘘を無抵抗に信じることになってしまう可能性はどうしたってある。ただでさえネットがソースになることが多いから、訳の分からん大嘘こきのアカウントが、弁護士でもなんでもないのに、大嘘の条文を引用して、全然ない判例を引用して、適当な見解をでっち上げることだってある。そんな捨てアカみたいなやつでなくて、歴とした何らかの社会的立場がおありになる人物が運営するアカであったとしても、万能感なのかなんなのか、専門外の分野でも同じような自信にあふれるトーンで真っ赤な嘘の見解を発表し、それが流布しているということもある。事実に裏打ちされてないのに流布しているということは、それがセンセーショナルで面白い見解だからとりあえず流行っている可能性は高く、事実を見失わせる有害な情報である可能性が高い。あるいはマジの本職が発言しているが、そいつがその本職の分野でボンクラであるというケースもままある。M-1上沼恵美子を思い出す。もっとも、「専門分野」といっても、我々が一つの分野だと思っている領域での活動で要求される能力というのは実に多様だ。例えば俺が従事しているプログラマー、エンジニアリングという分野。ここで「ひとかど」になる要因は実に多様だ。アルゴリズムを考えるのがうまい、アルゴリズムを考えるのが速い、集中力があるから作業効率がいい、集中力があるからミスをしにくい、人をまとめるのがうまい、人に気に入られるのがうまい、などなど。どれか一つか二つ満たせたら、もういっぱしのプログラマーといえるし、そう見なされるだろう。だから「ひとかど」になった人みんなが、これができたらひとかどになるという要因すべてを満たしてひとかどになっているわけではない。アルゴリズムをうまく組む人が、必ず人をまとめるのがうまいということにはならない。当たり前だが、ここをよく見誤る。ハロー効果というやつだ。漫才がうまい、うまかった人が、漫才を評するのもうまいとは限らない。ある分野について知りたければ、その分野のひとかどとされている人物の言うことを鵜呑みにしていればいいというわけではない。

 じゃあどうすればいいのよ。人を信じるといつか大嘘を吹き込まれる。でも自分が知らん分野のことは自分は判断できないし、収集している暇もない。詰んでるじゃねーか。まあ、実際詰んでると思う。信じるしかない。が、なるべく確度を上げたい。という欲求になるべく沿うように、指標にしていることが俺はあるから、それをメモ代わりに書こうと思ったら既にそこそこの文書を書いてしまった。ふわっと思ったことを書くにも、文章にしようと思ったら、その前提の話とかを書いておかないと意味が分からなくなるから、大変だな。ようやく本題に入れる。つまるところ、有名だけど適当こいてるカス論客をカス論客だと思い、いい意見を言う人をいい意見を言う人と思い、いい意見をよく言うわけではない人をいい意見を言う人だともカス論客だとも思わないための方法。最後のは蛇足ではと思うかもしれないが重要で、ここが一番の誤りの流入元だと思う。

 基本的には、カス論客の逆張りをしていればいい。カス論客はカスなことばかり言うので、逆張りすれば、そいつの誤答率がそのまま正解率になる。つまり大衆の逆張りはけっこう悪くない。が、あんまり有用なレベルの議論そのものをしていないので、「正解率×応用した事柄の効用」はいずれにせよ低い。奴らは自転車置き場の屋根の色は何色がいいかとかばっかり言ってるので、そもそも正解しようが間違えようがどうでもいいということだ。やっぱりもっと専門的なことについて把握していかないといけない。希少さは、専門性の大きな価値の一つだからね。他の価値に兌換しやすいのはそっちだ。屋根の色ではない。で、専門分野にもカス論客は必ず巣食っているが、これを見分ける方法が肝要だ。ここは人それぞれ判断基準があると思うが、俺は「自分にも分かるような内容をどう論じるかを見る」という方法がいいと思う。誰にでも分かる一般的なことや、自分(俺)の専門分野の事柄について、その論客が言及した時に、その論考が妥当であるかは、自分(俺)でも判断できる。その妥当性で、他の分からん分野の妥当性を類推する。まあ、単純な話だが、これぐらいしかないと思う。特に、その人が詳しくない分野、もしくは知り得ない情報が含まれる事柄があって、その知らないことが、その事柄の重要な部分を占める場合に、結論を出せないと結論できるかどうか。これは重要だと思う。これをちゃんとやる人は意外と少ない。特に目立つのが、想像による事実認定。「どうせ~~でしょ」とか、「~~してたに決まってる」とか。あるいは、まだ判決が出ていない事件の被告に対する態度とか、当事者しか知り得ない事実を争っている事件で、その事実を報道などからは知りようがないのに、勝手に決めつけるかどうかとか。いじめの報道などで、勝手にいじめっ子といじめられっ子の関係を想像しているなんていうのは顕著だ。これは多くの人が、マンガやドラマや、あるいは自分の体験した絵を頭に思い浮かべて決めつける。「~~だとしたら」という前置きで決めつけた状態で論考するのは構わない。もしもの話だし、そこを決めないとそれ以上の話ができない事柄も多いからね。ここを押さえているかどうかは、めっちゃ分かりやすいのでいいチェック項目になると思う。

 あといい意見をよく言うわけではない人をいい意見を言う人だともカス論客だとも思わないというのも重要で、なんかどうでもいいことばっか言うとか、価値が低いことを言うとか、一度言ったことの変奏をずっと言ってるやつとかは、どうでもいいので切る方がいい。フェミとかビーガンとかLGBTとかも、マイノリティがうまいことやってきて、うまくいけば利権化しようとしてんな、ぐらいで留めておくのがいいでしょう。フェミとかビーガンとかLGBTとかが間違ってるか、妥当かどうかとか考えるだけマジで無駄。最近頑張ってる新入社員のAくんに、ボーナスあげるかどうかを、あげる権限のない同僚社員が延々と考えてるようなもんだよ。得にならん。趣味でやるなら別ですよ。あの誤謬率クソ高集団(中には妥当な見解をもって戦ってる人もいると思うが、誤謬率クソ高人間の率が高すぎる)をボコボコにするのが楽しいなら、それそのものが幸福を生んでるからやればいいと思うが、そうでないなら価値ない。そういうのをボコボコにして遊んでる論理的エリートもいて、その人はそれで武勲を上げたり快楽を得たりしてるかもしれないが、観戦していて得るものは非常に少ない。アホがアホって言われてるのを見て、延々と「そうだなあ」と思うことに価値があるか? オナニーとかしてた方が人生に資すると思う。

 まあ振り返ってみるとけっこう当たり前のことばかり言ってるような気がするんですが、そうでもないかな? あるかな? 信用する情報源の選び方って難しいよね。