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続きを読むHyprer Ventilation
あまりにも完成してないだろうか。Hyprer Ventilationは。これ、尋常じゃないと思うんですよね。完成してるのは、ドラムが入ってくるまでのところの神感なんですよ。この可能性が可能性である止まりのこの一瞬のリフの提示。これに神感がある。ドラムが入ってきてからは、大人の所業なんですよ。なんかしょうがなく足してる感じ。いやいいんですよ。いい展開をしている。でも、リフの神感に比べればね。可能性を狭めているということにはなる。これ、すごいなあ。子供を損なうと、将来こうなっていたかもしれないという可能性をもとに、賠償額がすごくなるでしょ、裁判において。それに近しいものを感じるね。だんだんと、どうやったって、野田洋次郎の腕をもってしても、どうやったって陳腐化しているほどの神リフ。その後にどう繋げたって毀損するしかない神リフ。これを抱えた者の苦悩。あると思います。すごいわこの曲。
夜中にいきなり麻雀をしたがる奴
限界中年です。さっき、いきなり夜の22時になって急に何かやりたくなり、しかし愚かにも、ほっそい缶に入った何が差別化されてるのかよく分からないスパークリングワインがなぜかカルディで何百円もの値をつけて売られていたので買って冷蔵庫に入っていたものを、「雨水受けかな?」とか思いながら一口で飲んでしまったせいで、もう原付を運転することはできなくなってしまっていたのである。そのせいで行動範囲が限られ、それでもなおやりたいことを深く自問自答した結果、その正体はリアル麻雀だと結論され、緊急で千葉県松戸市近辺に住んでいそうな知り合いにいろいろと声をかけてみたが、華の金曜の夜、終電もチラつこうかという時間、そんな悲しい独身男性の声に応えてくれたのは一人だけだったのだ。一人でもいてくれただけ、俺は非常に恵まれている気がするのだが、とにかく可及的速やかに麻雀卓を囲むという夢は潰えた。しかも最近は風営法が改正されて、0時を超えてもやっている違法雀荘があるかどうかの確証もなく、俺の意気はみるみるしぼんでいった。意気がみるみるしぼんでいった中年というのはとても見るに堪えるものではなく、自分のことながら非常に醜く、徹底してミザリーというか、どこに走っていこうとも、こんなキモい自分が完全についてきて逃れられないという恐ろしい目に遭ったのである。空気を靴下のニオイに感じてしまうことを想像してみてくれ。どこに行こうが靴下のニオイがするような環境下にあるといってもいい。最悪すぎる! まあさすがに恒常的な靴下のニオイと自分を重ねたのは大げさだが、それと相似した心持ちである。とかいってると、なんか俺がすごい特殊な状況にあるというか、不健全な精神状態にあるのかと心配されるのかもしれないが、これはいわゆる、日常の中で少しずつ蓄積してきた鬱積のせいで、デトックスを欲しているということですわね。たまに来るんだよね。ストレス発散の機会を求めたんだね。それが俺をリアル麻雀に駆り立て、「お前、実は住んでるところが松戸に近くて暇だろ?」というパワハラめいた文章が突如として数人の知人へのメッセージとして振りまかれる事態を引き起こしたのであろう。諦めて、謎のワインとは一線を画す太さを誇る立派な缶を擁するアサヒスーパードライなどをコンビニで買い足し、かっ喰らい、YouTubeで音楽を聴きながら、その唄に合わせて熱唱してながらこれを書いている。すごすぎる。凄まじい。こんな、何にも繋がっていない歯車を回す動力みたいなことをして幸福を収穫しているとはね。
すべての音楽の中で、最も優れたリフは、RADWIMPSのハイパーベンチレーションなのではないか。このリフを生み出しただけで、すべての野田洋次郎は肯定されるべきである。間違えた。野田洋次郎のすべては肯定されるべきである。何を言っているんだ? 日本語って語順が違うだけですごい変わるね。何を言っているんだ? まあしかしバランスを取るように、サビはなんかアレッっての多いねRAD。パワーコードみたいなのをざっくり移動しながらワーワーワーワーみたいな。まあこれはこれで味だけど、こんなに素晴らしいリフの曲ばっかなんだから、全体としてもっとメロディアスで完成しててほしいと思わないでもない。DADAとか顕著にそう思う。急にRADWIMPS論が繰り出されているわけだが。今、ハイパーベンチレーションのライブ映像を観ているが、こんなライブ、現地にいたら感動するやろな。行きて~。ライブとか行こうかな。横浜アリーナぐらいなら原付でもブオーンと行けるだろ。探そっかな~。
憂さ晴らしといえば、キャバクラとか行こうかな。ほとんど行ったことなかったんだけど、やっぱりしっかりした中年としては、それくらいのことをしないといけないのではないか。さすがに回しみたいなことせんでいいよね? 俺はなんか、いわばラジオのゲストみたいなもんで、振られた話題に自然に答えてれば、場が楽しくなるようにあつらえられてるんだよね? そんなわけない気がする。会話なんてお互いの協力がなくては即座にヒエヒエになるんだから、俺も何かしらの何かを出していかないと盛り上がらないだろ、そんなものは。すべらない話の一つや二つぐらいしなくては。でも俺、すべらない話ないんだよなあ。だってあれってちゃんと威力があるように丁寧に作られた大砲の弾みたいなもんだからな。作らないと、ないんだよな。でっち上げるってわけじゃなくて、おもろい素材となる体験がちゃんとあった上で、その素材をしっかり仕上げるという過程を経ないと、弾になりえないということですよね。そんな取り組みをしたことがないから、ない。だって、あんたなんで弾持ってんすか? ニヤニヤ……みたいな自問が飛んでくるじゃないですか。え、あんた芸人なんすか? という自分の目があるから。それに悖るようなことをしていない。いや、した方がいいな。だってキャバクラで共同作業できないから。でもあれって半分以上、雰囲気の醸成技術だからな……。おい、芸人みたいなことを考えているな、お前。あっやばい! 俺の中の、芸人でもないのに芸人みたいなことをしようとしていることを専属で監視している俺が動いた! まあまあお座りください。いや違うんですよ。でも……。まあ試しに行くのが手っ取り早いか。
あ、間違えた。こんなん書いてるなら、今制作中のゲームシナリオ書けばよかった……。
ワインがぶ飲み
ラジオでは表現できない感覚がある。俺はこのブログのことはオートマティスムをする場として設営した。そのことは間違いがない。懐かしい。大学生の頃から続く信条だ。しかし今ではもう齢四十を迎えて、すっかりその性質は変貌してしまった。しかしこの変わらぬUI。すごい。変わらないということはそれだけでひとつの個性だ。思ったことをすべて記述する。それがオートマティスムではなかったか。俺がブログを書くとしたら、やはりこれなのだ。最近ではその意義を忘れ、何らかの意味のある事柄を書きつけていた。忘れてしまっているではないか。遺憾である。ラジオを代替としているのでここに記述すべきことはすべて吐露しているとして、書くことを怠っていたが、別種のメディアなのである。酔っている。酔っている時にしか書かねえよこんなもん。怖い。恐怖がある。なんかしらんけど酔ってしまって、てきめんにアルコールが効いて、今俺は酔っている。音楽をYouTubeでザッピングして、ことここに俺の気持ちは昂っている。これは真剣な話である。シリアスだ。生半可な歓待は、それを俺は許さない。つまり、最近のチャラいノリだけの音楽が俺を迎えたとして、ふざけるなと俺は一喝するだろう。この今の、ノスタルジー、なんか知らんけど酔ってしまった俺を迎え入れる音楽は、俺が親しんだ、かつて親しんだ、懐かしい音楽でなければならない。この酔ってる時の使命感は、なんなんだろうな。俺が普段、何らかの創作をしなければいけないという強迫観念、あの強迫と同種のものであろうか。誰しも、自分のこのリアルな感情が何よりも重要で、これを解決しないことには、何ともならない、という情が生まれることがあるだろう。酔っている時にだ。この儚さときたら、ない。なんで酔っていると、今のこのまろび出ている感情こそが何より重要で、他の何にも価値などない、という気持ちになるのだろう。それは他人にとっては、いや、他人どころか、後日の自分にさえ、なんだこれ、マジキチか? と思うようなものに成り果てるのである。そのことは分かっている。だとしたら、酔いとはなんと残酷なのだろうか。この今の俺の感情には何の価値もないというのか。酔っ払いの戯言という片付け。ふざけんなよマジで。この昂りに何の意味もないわけねえだろ。はあ。すべてがどうでもいい。揺蕩っている。何も守るべきものがないという身の上は、揺蕩いすぎている。すべてがどうでもよくなる。こんな不安定なものがありますか? もっと碇みたいなものを沈めて、それと接続しなければいけないのではないのですか? 人間というのは。
プログラマー飽きた。つまんねーーーー。もっと別のことしたい。何がしたいんだろ。何もしたくないな。別に。やっぱり俺は何かのために我慢して何かをすることが非常に苦手だ。抑圧に弱い。こんなことしてる場合じゃねえんだよなあ。もっと高尚な、何かをしなければいけない。俺ってこんなに抽象的なことばかり言う存在だっけ。それだけ抽象的な生活をしているということだな。ホンマ、なんなんだ。もっと何かあるはずだろ。俺をかつて刺激した、ホンモノのエンターテイメントが俺を苛む。もし俺が高名な思想家だったら、よくある晩年に訳の分からんことを書き記しましたみたいなものとしてこの散文がピックアップされたりして。俺を形成してきたもの。特定のエンターテイメント数本。これに触れている時だけが、汗臭い憧憬と共に俺の記憶にとって鮮明なものとして顕現する。今、CARNIVALのOPムービーを見てる。これが俺の青春だ。回春だ。ヤバすぎる。瀬戸口廉也、責任とってくれ。俺はその地平に放逐された。ただのエンターテイメント作家として俺は貴方を見れない。物理的に俺を絆して、どこか訳の分からん地平に俺を導いた具体的な人だ貴方は。厄介オタク。解決しないかなー自動的に。解決しない。解決解決。はあ。東浩紀が、過去はよかったと振り返る人が多いことを不健康だと評していた。その通りだ。俺の場合、過去の自分が感じたあの感情だけが本物だったという意味で、過去がよかった。あの瞬間にした感動、あれは本物だった。今は、そんなものを感じていない。そういうことだ。今は、どうでもいい。あの時の感動に、今の何の快楽も匹敵していない。バカバカしい。保守的な自分がだるい。保守的という殻をかぶることもおこがましい。単に、楽な生活を手放しがたいだけだ。もっとピリつきたい。でも、ピリつくこともできなくなってきている。なんとか解決しなくてはならないのだろう。
柏から帰る電車の中で
何かエンタメを創らなくてはならないとしたら、何だろう。ということを考えている。俺はどうしても、何らかの、エンタメめいたものを創らないといけないのである。その理由はまあ…置いておこう。変な内的動機がパッとありそれが抗いがたいのだとしよう。だとしたら、何を選ぶべきか。まあ…ゲームか物語だ。前者は一日の長があるから創りやすく、後者は何も言ってないに等しい。なんならこの二者は排他的でもない。物語はあまねくエンタメに必要だ。だから物語を考える。
知らないものは創れないものだ。よく私小説は、自分の体験などという手が届きやすい題材にばっかり言及しやがって、そんなもん誰でも書けるわい、その点、ほとんど誰も体験したことのない物語を提供してくれる幻想作家、異世界作家は偉いのだ。恥を知れ! などと言われ、蔑まれている。と俺は勝手に思っている。しかしながら、俺の私的体験やそれに伴う思索は、たいへん稀有なもので、これはこれは、世間に向けて開陳する価値があるものだ、いやそれどころか、俺にはそれをする責務があるのではないか? とさえ思っていた頃があった。何者かによって思わされていたのかも。その病は二十代前半まで続いた。誰が病やねん。いやそれは病さながらで、これは自虐や卑下ではなく、そらそうなのである。一部の子女が罹るよくある全能感バフ、いやデバフが軽減され、ようやく物事の真の姿が見えるようになってきた今、正しい物語を書かねばならん。俺の場合はYouTuberの走りみたいな、ちょっと特殊な20代を送ったため、ちゃんと稀有な体験をしていて少し話がややこしいが、その上に乗っかる懊悩はだいぶ平凡なものである。つまり、例えばまどマギに憧れて、あーまどマギみたいなギリギリの懊悩を描きたい! と企図して、俺のせっかくの特殊な人生を取っ払って、知らんキャラ群を作って俺の懊悩を乗っけて描いたところで、それそのものが燦然と輝いたりはしない。繰り返すが、これは自虐ではなく摂理なのである。俺は概ね、寝てたーいとか、ゲームしてたーいとか、ヤリたーいとかの、凡な欲をそこそこしか抱いていなかったのでしょうがないのである。商品にならん。でも俺の近くにあるのはそれぐらいで、おそらく多くの人は卑近な物しか詳しく書けんのだ。どうするか。仕掛けを凝らすしかないだろう。面白くなりそうな設定を考えるのだ。面白くなりそうな状況でもいい。一般的な思考回路をしているやつらがおもんなく群像してても、それなりに面白い状況を作れば面白さは宿る。その路線で行くべきだろう。しかしそれでもやはり卑近の呪縛からは逃れられない。知らん世界の話を描くのは解像度の低さが面白くない方への引力を生む。やはり舞台は現代日本がよいだろう。うーん、じゃあそこには俺がいるな。卑近な存在であるところの俺でも描くか…ってコラコラコラ〜ッ!👆💦 それおもんなくて禁じた私小説でしょ! っていう円環を何周かしている。うーむ。ハリウッドザコシショウってどこで生まれたんだろう。ググったら静岡県だって。でさぁね〜〜〜!
夢にやられ君が出てくれたヨ
やられという実在の友人と二人で俺んちでホールデムポーカーをしていたら、いつの間にかやられの姿が見えなくなっていて、しかし声はする。もう解散しようという時間なのに、ふざけて隠れてるのか? と俺は思い、早く出て来るように促すも、やられは「今どこにいるか俺もよくわからん。ここ何?」と言う。そんなわけないだろ、とその辺を探すがおらず、ベッドの下なども見るがまったく見つからない。しかし声はする。それも、すぐ近くにいるような響きで。やられは自分がいる場所の説明をしようと試みるのだが、考えがうまくまとまらないようで、うーんとか、でもなーとか、ほとんど情報がないことを少し言っては、すぐに口を噤んでしまう。奇妙なのが、どうやらどこかに閉じ込められているようなことを言うのに、本人に必死さがぜんぜんなく、「なんかうまくいかんみたい」などと他人事なのである。俺もその態度には呆れて、「さすがになんかあるやん」と詰めながら、家の中を捜す。すると、ウォークインクローゼットの中に、変なドアがあることに気づいた。ちなみに本当の俺の家にはそんなドアはないし、そもそもウォークインクローゼットなどない。しかし俺はウォークインクローゼットの存在には疑問を抱かず、ああ、ここ捜してなかったなと思っている。中にあるドアのことはさすがに異様だと感じたが、認識がシュリンクするかのように、そういえばこんなものもあったな、と思い直す。ドアを開けてみると、中は洞窟のようになっているのが見え、あれ、いやこんなんだっけ? とすぐに閉める。少考して、あった気がする、と思い直し、その中の探索を始めることにした。非常に暗い平坦な道にすぐ隣接して、同じぐらいの幅の川が滔々と流れている。激しい水音はしないが、それなりの水量だ。その川側の壁面に、太い針金の格子がついた青白い蛍光灯が一定間隔で設られており、その辺りからも川に水が少し流れ込んでいることが分かるし、蝿が飛んでいるのも見える。家に虫がよく出るのはこれが一因なんじゃないのか? などと変な次元のことを俺は考えている。道を少し進むと、ウォークインクローゼットのような木の扉を見つけた。ウォークインクローゼットの扉・イン・ウォークインクローゼットである。ただし表面はボロボロで、いくつかある通気口であろう横向きのスリットはすべて、金属が錆びたようなものがごつごつと付着している。おっかなびっくりそれを観音開きすると、中から人が飛び出してきた。まるでゴミ袋を開いた時の蝿のように。それはやられであった。さっきまでの無気力な声からは想像できない、俊敏な動きだった。「こんなとこにいたのか」と声をかけ、確かにこんなところにいたら、周りの状況の説明なんかできないか、となぜか得心した。いや、できるだろ。しかしここがどこかよく分からんのは彼の言う通りで、俺はホケーッとこのような洞窟の存在を改めて受け入れるための思索に耽り始める。しかしやられは既にそれを終えていたようで、「探検しようよ」と言い出した。俺は面食らい、しかし彼はすぐに洞窟を出ていこうとするので、流されるままそれを追った。やられは家の中に戻るや、懐中電灯はどこか聞いてきた。あー俺そういうグッズ持ってないんだよな、などと返答し、結局二人分のスマホのライトを掲げて探索を再開した。なぜイニシアチブを取られてこんなことをしているのかに疑問も抱かないまま、やがて一番最奥の部屋に辿り着く。そこには分かりやすい形の茶色い宝箱があった。開けてみると、中には山ほどの現金が入っていた。帯封で巻かれた一万円札。新札ではなく、むしろ一般的な札より皺や折れが目立つようなもので、よく見たら帯封も汚いし、千円札や五千円札も夾雑に混ざり込んでいる。それでも大金には違いなく、俺は興奮して、横領する気満々で、やられと山分けするとどれくらいになるかを瞬時に考えていた。やられは特に感動するでもなく、むしろこんな場所がありながら、長きにわたって俺が気づかなかったその理由に興味がある様子だった。総額いくらぐらいになるか勘定しているところで目が覚めた。
ぼっち・ざ・ろっくを視聴した感想
ぼっちざろっくを観た感想。を書きたいのだが、感想の大半が俺の個人的な経験なくしては抱かないはずのものなので、感想と呼ぶのに躊躇する。が、書く。
末尾からのコピペなのだが、要するに「最高だった。学生時代の理想を見せられているようだった。俺はこういう最高のことをやりたかったがやれなかった。もうちょっと環境が良ければ至れたかどうかギリギリだと思うのに。これまではまだ可能性がある側の気持ちでいたので、こういう素晴らしいものを作り上げる若者の姿を描かれても「なかなかやるね」ぐらいに思っていたのが、もう後に何にもない年齢になってきたので、素朴に羨ましい。羨ましいが、もう絶対に得られない。羨ましすぎて死にたくなる。今後の人生は、これらとの格闘になるのだろうという予感しかしない」ということである。