悠久バプテスマ

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柏から帰る電車の中で

 何かエンタメを創らなくてはならないとしたら、何だろう。ということを考えている。俺はどうしても、何らかの、エンタメめいたものを創らないといけないのである。その理由はまあ…置いておこう。変な内的動機がパッとありそれが抗いがたいのだとしよう。だとしたら、何を選ぶべきか。まあ…ゲームか物語だ。前者は一日の長があるから創りやすく、後者は何も言ってないに等しい。なんならこの二者は排他的でもない。物語はあまねくエンタメに必要だ。だから物語を考える。

 知らないものは創れないものだ。よく私小説は、自分の体験などという手が届きやすい題材にばっかり言及しやがって、そんなもん誰でも書けるわい、その点、ほとんど誰も体験したことのない物語を提供してくれる幻想作家、異世界作家は偉いのだ。恥を知れ! などと言われ、蔑まれている。と俺は勝手に思っている。しかしながら、俺の私的体験やそれに伴う思索は、たいへん稀有なもので、これはこれは、世間に向けて開陳する価値があるものだ、いやそれどころか、俺にはそれをする責務があるのではないか? とさえ思っていた頃があった。何者かによって思わされていたのかも。その病は二十代前半まで続いた。誰が病やねん。いやそれは病さながらで、これは自虐や卑下ではなく、そらそうなのである。一部の子女が罹るよくある全能感バフ、いやデバフが軽減され、ようやく物事の真の姿が見えるようになってきた今、正しい物語を書かねばならん。俺の場合はYouTuberの走りみたいな、ちょっと特殊な20代を送ったため、ちゃんと稀有な体験をしていて少し話がややこしいが、その上に乗っかる懊悩はだいぶ平凡なものである。つまり、例えばまどマギに憧れて、あーまどマギみたいなギリギリの懊悩を描きたい! と企図して、俺のせっかくの特殊な人生を取っ払って、知らんキャラ群を作って俺の懊悩を乗っけて描いたところで、それそのものが燦然と輝いたりはしない。繰り返すが、これは自虐ではなく摂理なのである。俺は概ね、寝てたーいとか、ゲームしてたーいとか、ヤリたーいとかの、凡な欲をそこそこしか抱いていなかったのでしょうがないのである。商品にならん。でも俺の近くにあるのはそれぐらいで、おそらく多くの人は卑近な物しか詳しく書けんのだ。どうするか。仕掛けを凝らすしかないだろう。面白くなりそうな設定を考えるのだ。面白くなりそうな状況でもいい。一般的な思考回路をしているやつらがおもんなく群像してても、それなりに面白い状況を作れば面白さは宿る。その路線で行くべきだろう。しかしそれでもやはり卑近の呪縛からは逃れられない。知らん世界の話を描くのは解像度の低さが面白くない方への引力を生む。やはり舞台は現代日本がよいだろう。うーん、じゃあそこには俺がいるな。卑近な存在であるところの俺でも描くか…ってコラコラコラ〜ッ!👆💦 それおもんなくて禁じた私小説でしょ! っていう円環を何周かしている。うーむ。ハリウッドザコシショウってどこで生まれたんだろう。ググったら静岡県だって。でさぁね〜〜〜!